それ以降、葬式を出せない困窮した人たちと

同様に、屯所で切腹した隊士たち(山南自身

も)も分け隔てなく、当時の住職二十二世良

誉上人によって弔われ、この光縁寺に埋葬

されることになりました。
光縁寺の門前近くに新選組の馬小屋があり、毎日、隊

士たちが門前を往来していました。その中に副長の山

南敬介もいました。山門を見上げると上の瓦に「丸ニ右

離レ三ツ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入り、それ

がきっかけで当寺との縁が始まりました。
丸ニ右離レ三ツ葉立葵 
山南を(やまなみ)と読んでいますが

、実は(やまみなみ)と読むのが本当

だったそうです。当時、山南は「やま

みなみ」と言いにくいため「さんな

ん」と呼ばれたりしていました。土

方歳三が呼び方がややこしいの

で、「やまなみ」と無理やり読ませ

たことが一般的となったとの事です。
山南敬介の墓 
沖田氏の縁者の墓 
墓地の一番奥に沖田氏の縁者の墓がありますが、名前は不明です。