勤王派志士によるテロが横行していた京の治安を守るため、幕府は京都守護職を設置し、会津藩主 松平容保がその任に就きました。そして金戒光明寺に本陣をかまえました。
かたもり
会津藩主

松平 容保
しちきょう
八月十八日の政変の日、世に言う「七卿の都落ち」で浪士隊は大役を

果たし、「新選組」と命名されました。その後、正式に武士に取り立

てられ幕臣となりました。
黒谷金戒光明寺が京都守護職会津藩主松平容保の本陣となった時から、

幕末の京都の歴史が始まりました。

黒谷には会津藩殉難者墓地・鳥羽伏見の戦いの戦死者を祀る慰霊碑が

あり会津藩と深い関係があります。

新選組と会津藩の関係は、幕府が将軍上洛警護のため浪士組を結成し

たことに始まり、このような時代背景から新選組が誕生し京都の治安

回復のために奔走しました。新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間で

は報告・伝達が毎日のように行われていたとのことです。
近藤・芹沢らは京都残留の嘆願書を守護職に提出。浪士隊(のちの新

選組)はこの本陣を訪れ「京都守護職会津藩預かり」の肩書と任務を

与えられました。洛中警備の任を与えられた浪士隊は本陣に出向き境

内で武術の上覧試合を披露しました。

個性派ぞろいの剣士たちは、見事な上覧試合を展開したと言われてい

ます。





京都守護職を幕府より拝命し、京都の治安維持に当った気持ちには全く虚邪の気持ちはなく、ただひたすら正直に任務を遂行し、いかなる時もその言行は一致し、有徳の人(孝明天皇)に従った。

居するには常有り









行いは必ず正直にす。
志には虚邪無く、






必ず有徳に就く。