幕府直属になったので一層の規律を厳しくすることにより組織を維持し、また芹沢一派を排除するために、近藤勇が「「局中法度」を制定することを強く主張しました。この「局中法度」により腹心の山南敬介も脱走の罪で沖田の介錯で切腹の刑に処せられました。
新選組分宿時代の屯所の1つで、八木邸と同じく文久三年(1863)に守護職預りとなって以来屯所として使用されました。山南敬介と野口憲司が切腹した屯所で、池田屋騒動の発端となった古高俊太郎を取り調べた土蔵がそのまま残っています。