芹沢鴨 最後の宴席 松の間
度重なる芹沢一派らの乱行に、新選組は「壬生狼」(みぶろ)とよばれ、町衆に恐れられていました。士道を重んじる近藤勇は、頑強な組織づくりと芹沢一派を排除する狙いで「局中法度」の制定を強く主張しました。
世間の非難の声に、京都守護職の松平容保は近藤勇に芹沢鴨の抹殺を命じました。
土方歳三は局長の芹沢鴨を角屋へ誘い出し宴席をもうけました。芹沢は泥酔させられたのち壬生屯所に戻り、寝入ったところを暗殺されました。芹沢鴨一派暗殺の序曲は角屋ではじまっていたのです。
角屋では西郷隆盛などの勤王の志士が軍用金調達のため鴻池などの豪商を招き、しばしば宴会を催したと伝えられ、勤王の志士を追う新選組の近藤勇や芹沢鴨も出入りしていました。角屋玄関前の柱の傷は、隊士のだれかが酒に酔って刀を振りまわしてできた「新選組の刀痕」として残っています。幕末の時代の流れを角屋はじっと見守っていました。